2020年01月27日12時58分
【エルサレムAFP=時事】ナチス・ドイツがポーランドに設置したアウシュビッツ・ビルケナウ強制収容所の解放から27日で75年を迎える。AFPでは、死の収容所を生き延びたユダヤ人らにインタビューを行った。(写真は腕に入れられたアウシュビッツの囚人番号を見せるホロコーストの生存者シュムル・イツェクさん)
アウシュビッツでは何百万ものユダヤ人が殺された。残った生存者らは高齢となり、左手に刻まれた囚人番号の入れ墨は薄れた。だが、当時の恐怖によって心と体に刻まれた傷は今も消えることなく残っている。
■シュムル・イツェクさん
1927年9月20日ポーランド生まれ/アウシュビッツ囚人番号117 568
アウシュビッツで亡くなった両親と姉妹の写真を見るシュムル・イツェクさん(92)の体は震え、目は涙で曇っている。
1942年初め、悪名高いナチスの秘密警察ゲシュタポからの通知を受け、イツェクさんの2人の姉妹は出かけて行った。家族を守るため、ゲシュタポの元を訪れなければいけなかったのだ。
「2人は出かけて行って、二度と戻ってこなかった。2人がどうなったのかは分からない」。交通事故に遭い、話すことが困難になった夫に代わり、妻のソニアさんが答えた。
イツェクさんは長年、アウシュビッツにいたことを妻には秘密にしていた。
イツェクさんら夫婦はベルギーで長年暮らした後、イスラエルへと移り住んだ。今は、エルサレムのアパートで暮らしている。居間の壁にはイツェクさんの家族の古い写真が飾られている。
姉妹2人がいなくなってから1か月後、ドイツ人らが家を訪れ、今度はイツェクさんの両親、2人の兄弟、イツェクさんを連れ出した。
「列車を降りてアウシュビッツに着くと、少年のように父親の手を握った」
だが、イツェクさんはナチスによって父親から引き離された。「父親と一緒にいたかったので泣いた。ドイツ人から『おまえはあっちだ』と言われた」と当時を振り返った。
父親の姿を見たのはこれが最後だった。父親はガス室に送られた。両親は死んだが、イツェクさんと兄弟2人は生き残った。イツェクさんは2年半、アウシュビッツに収容されていた。
他の生存者とは異なり、イツェクさんが戦後にアウシュビッツを再び訪れることはなかった。アウシュビッツに関する本を読むことも避けていた。
イツェクさんは長年、長袖の服を着て囚人番号の入れ墨を隠していた。しかし、最近になって、入れ墨を隠さなくなったという。
「これまで見せたくなかったけど、今ではタクシーに乗ったら最初にこうしている」と、ソニアさんはイツェクさんの腕を見せながら言った。
「夫は恥ずかしく思っていたようだったので(中略)、私はこう言った。『あなたは収容所に行った。あなたは幸せでいなくては。生き残ったのだから』」
■メナヘム・ハバーマンさん
1927年チェコスロバキア生まれ/アウシュビッツ囚人番号10 011
メナヘム・ハバーマンさんはイツェクさん同様、家族と引き離され、アウシュビッツに収容された。まだ10代だった。
8人のきょうだいで生き残ったのはハバーマンさんだけだった。収容所の外にある用水路に連れて行かれ、シャベルを渡された時のことを詳しく話してくれた。
「用水路の両側を忙しく行き来し、水に灰を流さなければいけなかった。私は自分が何をやっているのか分からなかった。作業後、ここでの収容経験が長い人に聞いてみた。『私は何をしていたのですか』と」
「その人は『あなたの家族は全員、ここに到着して4時間後には灰になって水に流されたんだ』と答えた」「私がどこにいるか理解したのはその時だった」とハバーマンさんはAFPに語った。
「私は自分自身に、ここで死にたくない、自分の灰がこの用水路から川に流されるのは嫌だと言い聞かせた」「(ユダヤ人の言語)イディッシュ語で、こう言っていた男性がいた。『働く力がない者は、煙突行きだ』」
「私はその言葉を胸に刻み、繰り返し考えた。ここで死にたくないと」
「毎日、特に夜になるとそのことを考えた」とハバーマンさんは言う。「それは私の中に深く染み付いている。75年たった今も、その言葉と共に生きている。忘れたことはない…忘れられない」
■マルカ・ザケンさん
1928年ギリシャ生まれ/アウシュビッツ囚人番号79 679
テルアビブ郊外の小さなアパートで、マルカ・ザケンさん(91)は、人形に囲まれて暮らしている。まだもともとの箱に入っている人形もある。
ザケンさんはAFPの記者が到着すると、「ショーン、彼はドイツ人ではないから心配しないで。あなたを連れて行かないから」と、そのうちの1体に話し掛けた。
高齢のためザケンさんの記憶は混乱している部分もあり、話も不明確なところがあるが、アウシュビッツのトラウマは鮮明に記憶に焼き付いている。
「幼いころ、母は私にたくさんの人形を買ってくれた」と、ギリシャで両親と6人のきょうだいと暮らしていた子どものころを振り返る。
「でも、母はナチスに焼かれてしまった。人形たちと一緒にいると母を思い出す。まるで、まだ子どもで家にいるような気持ち。そのことをいつも考えている」と語った。ザケンさんは、家で介護人とテレビドラマを見ながら午後を過ごしている。
アウシュビッツでは、いつも殴られたとも話した。「私たちは裸で、彼らは私たちを殴った。(中略)どれだけ苦しんだか決して忘れない、決して忘れない、決して」「なんてこと! なぜ、私が生き延びたのかも分からない」
ガス室の恐怖におびえていたこと以外では、死の収容所で誰もが経験した飢えについても覚えていた。極度の飢えにより、囚人らは歩く骸骨のようになっていたとザケンさんは話す。
■サウル・オレンさん
1929年ポーランド生まれ/アウシュビッツ囚人番号125 421
同じくアウシュビッツを生き延びたサウル・オレンさん(90)も、「残忍な」飢えについて語った。オレンさんによると、囚人らに与えられたのは水っぽいスープだったという。
「スープだけで1日過ごすこともあった。または小さなジャガイモかパンのかけらを与えられることもあった」
「後々まで取っておきたかったので、パンを全部食べようとは思わなかった」
オレンさんの母親はアウシュビッツで殺された。母親の写真は残っていないが、絵を描くことで、母の姿を残そうとしている。
強制収容所を出た後も、飢えはオレンさんに付きまとった。
旧ソ連軍が進攻してくると、ナチスは「死の行進」を敢行し、囚人らを厳しい寒さの中で強制収容所からドイツとオーストリアに向けて歩かせた。
「私たちは12日間、ほとんど食べる物もなく歩いた。(中略)森で休んだ時、死んだ馬を見つけた。全員が馬の死骸に群がり、食べた」とオレンさんは回想録に書いている。
■シュムエル・ブルメンフェルドさん
1925年ポーランド生まれ/アウシュビッツ囚人番号108 006
シュムエル・ブルメンフェルドさんも「死の行進」の生存者だ。ブルメンフェルドさんは、ホロコースト(ユダヤ人大量虐殺)で主要な役割を果たしたアドルフ・アイヒマンの看守をしたことがある。
イスラエルに連行されたアイヒマンは、エルサレムで裁判を受け、1962年に絞首刑となった。
ブルメンフェルドさんはアイヒマンに向かってアウシュビッツの入れ墨を見せながら、「おまえの部下は命令を完遂できなかったぞ。私は2年間あそこで過ごしたが、まだ生きている」と言ったという。
ブルメンフェルドさんは近年、ポーランドを繰り返し訪れ、家族が殺されたそれぞれの場所から土を持ち帰っている。土は、黄ばんだ小さな袋に入っていて、それを自分の墓に一緒に入れるよう自身の子どもたちに頼んであるという。
ブルメンフェルドさんは高齢だが、今もイスラエルの若者らとポーランドを訪れている。
■バットシェバ・ダガンさん
1925年ポーランド生まれ/アウシュビッツ囚人番号45 554
上品な雰囲気を漂わせたバットシェバ・ダガンさん(94)は、今でも活動的だ。人生を未来の世代の教育にささげてきた。これまでに本を6冊執筆しているが、うち5冊は子ども向けの書籍だ。
強制収容所を出たダガンさんは、「生き延びて(人々に)伝える」ことを決心したのだという。
ダガンさんはアウシュビッツの近くにあるビルケナウ収容所の倉庫で働いていた。そこには、靴など囚人の持ち物が積み重ねられていた。「私は20か月そこで過ごした。600日間ずっと」
ダガンさんの仕事は、収容所に到着したユダヤ人の旅行かばんを燃やし続けることだった。
「いつも死におびえながら、何時間も働いた。これが最後かもしれないと常に思いながら暮らしていた」
子どもたちに教えることで、自身の経験を前向きなものにしたいとダガンさんは考えていると話し、「ホロコーストの恐怖だけを物語るのではなく、お互いが助け合っていたこと、パンのかけらを分かち合えたこと、友情など素晴らしいことも話すようにしている。(中略)私たちは人間性を失わなかった」と続けた。
「私は生きている。(中略)苦しみは克服した!」【翻訳編集AFPBBNews】
〔AFP=時事〕
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January 27, 2020 at 10:58AM
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