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Thursday, July 2, 2020

「いつか自分も」迫る死の恐怖 フィリピン戦線足止め…95歳元衛生兵が感じた不条理(西日本新聞) - Yahoo!ニュース

 戦況が悪化したフィリピン戦線に派遣されるはずだった太平洋戦争末期の1944年9月。松本美芳さん(95)=熊本県水俣市南福寺=は、衛生兵として韓国・釜山の港にいた。「輸送船に乗れなかったことで命拾いした」。偶然が重なってフィリピン行きは見送られ、宮崎県で終戦を迎えた。敗戦を予感し、それでも戦地へ向かう不条理を感じていた当時の記憶をたどった。 「泣かないで」18歳の特攻隊員が残した遺書  松本さんは24年、同市の農家に7人きょうだいの末っ子として生まれた。唯一の男の子で、水俣実務学校(現水俣高)を卒業後、15歳からチッソ水俣工場に勤めていた。  19歳だった44年3月、志願して熊本西部第21部隊に入隊。その10日後、旧満州(中国東北部)のハイラルに派遣された。所属した満州第737部隊では、仕事で化学薬品を使い慣れていたことから衛生兵の訓練を受けた。

 日本軍の戦況は悪化の一途をたどっていた。同6月のマリアナ諸島沖の海戦で米軍に敗れ、翌7月にはサイパン島が陥落。松本さんの部隊は同9月、米軍の侵攻で劣勢のフィリピンに向かうことになった。  しかし、釜山の港で足止めを食らう。馬が引く旧式の大砲を使う部隊だったため、兵隊や大砲、馬は積載重量がオーバーし、船に載せられなかったのだ。  敗戦が近づいている-。衛生兵の松本さんは、物資の乏しさからも薄々感じていた。「薬品はあまりないし、包帯やガーゼは繰り返し洗って使う。それで戦争に勝とうかいな」。釜山に待機することになり、内心安堵(あんど)した。  釜山の山あいにある兵舎で生活する中、次々にフィリピンに派遣される仲間たち。「いつか自分も」。戦線での活躍は兵士として誇りに思う一方、死の恐怖も迫る。松本さんにも一度は出発命令が出たが、体調を崩して見送られた。

 フィリピンの戦闘は苛烈を極めた。日本海軍はこの年の10月、米軍主体の連合国軍を迎え撃った「レイテ沖海戦」で敗れ、艦隊能力を事実上失うことになる。  松本さんは45年1月、九州防衛のため宮崎県三股町へ派遣された。疎開して不在となった医者の代わりに、住民のけがや病気の治療にも携わった。そして8月15日、玉音放送を聞いた。「これで助かった」。当時の心境をこう語る。

 定年までチッソに勤めた松本さん。戦後、幸運が重なって自分の命があることを知った。釜山滞在中、近くの港からフィリピンに向かっていた輸送船が、米軍潜水艦の魚雷で沈没していた。訓練兵時代に寝食をともにした津奈木町出身の同年兵は、フィリピンで命を落としていた。  「戦争はできればもうやめてほしい。こんな無駄なことはない」。戦後75年を迎えた今、平和の尊さをかみしめている。 (村田直隆)

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July 03, 2020 at 08:38AM
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